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about Kubota Philomandolinen Orchester

Kubota Philomandolinen Orchester

クボタ フィロマンドリーネンオルケスター

クボタフィロマンドリーネンオルケスターは1993年、クボタムジーク アカデミー(KMA)や学生マンドリンオーケストラの出身者により、久保田孝を中心に結成されたマンドリンオーケストラです。

オーケストラの名称になっている「フィロ(philo)」とは「〜〜を愛する」の意で、マンドリン音楽を愛好する仲間のオーケストラとして、結成以来たゆまぬ研究・研鑽を積んでいます。

研究の成果は、意欲的なプログラムによる定期演奏会の開催、国内各地及び海外での特別演奏会の開催、国民文化祭や音楽祭への参加、CDのリリース、各分野の一流の演奏家との共演といった活動を通じて、常に高い評価を頂いています。

このオーケストラの最大の特徴は、マンドリン属の奏法について「クボタメソッド」に基づき、アンサンブル の一層の充実を図っていることです。その意味で当団は、音楽監督・常任指揮者である久保田孝の長年にわたるマンドリン音楽の研究成果を実践するオーケストラとしての役割を担っていると言えます。

現在、団員は約50名。団員の出身校は約30校にものぼるなど、特定の大学のOBオーケストラとはならず自由な雰囲気で活動をしております。東京都区内を中心に行われる月3〜4回程度のトゥッティによる練習は必ず氏の指導のもとで行われ、常に高い次元の音楽を目指しています。

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久保田孝からのメッセージ

〜第2回定期演奏会パンフレットより〜

「マンドリン界のベルリンフィルを作りましょう!」私が「フィロマンドリーネ」を新たに作ろうと決心したのはこの言葉に心を動かされたからなんです。

1993年の6月頃それまでKMAオーケストラで一緒にやってきた団員の数名が私のところにやってきて、「もっと音楽的な良い演奏がしたい」「だから、演奏会だけでなく普段の練習から久保田先生に指揮をしてもらえないか」と言うんです。また、「1年単位で活動を終わらせずに、もっと長い目でみて活動できる団体にしましょう。そして、だれも考えなかったようなことをやりましょう。」ってね。

その第一弾が1994年の「幻想曲」と「舞踊風組曲」をまとめて取り上げるという企画だった訳です。加えて彼らはこうもいいました。「『久保田孝のオーケストラが、久保田孝の曲を、久保田孝自身の指揮で演奏する。』こんなかっこいいことはないじゃないですか。」「そして、これが久保田が思い描く舞踊風なんだという演奏をするべきなんです。」結果として大成功だったといえるでしょう。演奏会のCDが、発売から半年で500枚も売れましたからね。少なくともマンドリン界に一石を投じたのは確かでしょう。

それと、嬉しかったのは、第1回の演奏を聞いて励ましのメッセージをいただいたり、新たに入団してくれた人が何人もいたことですね。我々の音楽や活動に賛同してくれる人がいるということは心強いかぎりです。翻って、現在のマンドリン界をみると一時期に比べてかなり低迷していますね。その原因はいくつか挙げられるでしょうが、ここでは私がいつも気にしている二つのことについて述べようと思います。

その一つは、指導者の絶対的な不足です。オーケストラはかなり弾いているのに指揮者が曲をよく理解していない為に、音楽的とはいえない演奏になっていることがよくあります。こうした状況がすこしでも改善されればとKMAを続けてきましたが、お蔭様で教室生たちが率いる団体はかなり良い演奏活動を続けていると自負しています。オーケストラで指揮する方は、指揮者の役割や存在意義を充分に認識した良き指導者となって欲しいと思います。

もう一つはプロのマンドリンオーケストラがないということでしょう。これは現状では仕方のないことなのでしょうが、活況を呈している世界はどの分野であろうと必ずプロがいて、それに携わるものの目標となっているものです。もちろん、ソロで活動を続けてらっしゃるマンドリニストの方々はたくさんいらっしゃいますが、ことオーケストラというと無いのです。

つまり、アマチュアのオーケストラが目標とすべき演奏も聴けなかったということなのです。それで、私は「フィロマンドリーネ」で、現在マンドリン界で演奏されている曲を改めて取り上げ、それらに一つの解釈を施していこうと思うのです。ベルリンフィルがそうであったように。

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Takashi KUBOTA

久保田 孝

1942年、東京小石川に生まれる。1954年、明治大学付属明治中学入学と同時にマンドリン部に入部。佐伯亮氏にマンドリンの手ほどきを受ける。明治中学・明治高校・明治大学と10年間マンドリンクラブに籍を置く。卒業後は、佐伯亮氏のもとでアレンジャーとして、また、マンドリン・バラライカ・レキントギターのスタジオプレーヤーとして活躍する。ソロパートを担当したLPレコードが10数枚、主に日本コロムビアから発売された。

1968年、旧西独カールスルーエ音楽大学指揮科にて、 アルテゥール・グリューバー教授に師事。在学中、カールスルーエ、シュヴェッツィンゲンでの音楽会で指揮。音楽大学に通う一方、DZO(ドイツツプフオーケストラ)の一員として、また、グロッツィンゲン第一マンドリンオーケストラの指揮者として活躍した。生前のジークフリード・ベーレント(ギタリスト)、コンラード・ヴェルキ(作曲家)、ヘルマン・アムブロジュース(作曲家)の各氏とも親交があった。

『セレナーデ(Op.12)とメヌエット(Op.11)』がドイツのトレッケル社から出版されている。また、『組曲第1番ロ短(Op.4)』はベーレント指揮、DZOの演奏でザールブリュッケンの放送局から放送された。 1972年、オーストリアの国際カリンティッシャー・ゾンマー音楽祭で、同音楽祭管弦楽団を指揮。同年ウィーン音楽大学指揮科にて、ハンス・スワロフスキー教授に師事。1972年、1973年の両夏に、同教授の『指揮者のためのマイスターコース』に参加し、2年連続して最優秀の成績を修めた。1973年、ケルンテン管弦楽団を指揮した"ジュピター"が、ORFテレビを通して放映された。1974年6月、ウィーン音楽大学を卒業。ウィーンコンサートハウスにてトーンキュンストラーオーケストラを指揮した卒業演奏会の『未完成交響曲』が地元紙「Die Prese」 に好意をもって報じられ、大成功を修めた。1974年7月、6年間に亙るヨーロッパ留学を終えて帰国。帰国後、東京フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団、群馬交響楽団、新星日本交響楽団、日本新交響楽団、ディベルティメント室内管弦楽団、その他アマチュアの習志野フィルハーモニー管弦楽団、東京楽友協会管弦楽団、明治大学交響楽団などを指揮した。

マンドリン界では、1976年以来7年間、青少年音楽祭、JMJコンサートでジュネス・ミュジカル・マンドリンオーケストラの指揮を務める。1994年、三重県の委嘱により、『第9回国民文化祭・みえ94』の為に作曲した『イセアーナ』を、また、1998年には、大分県の委嘱により、『第13回国民文化祭・おおいた98』のために作曲した詩的幻想曲『過去への祈り』 を夫々初演して大成功をおさめた。

1993年に創立、主宰しているクボタ フィロマンドリーネン オルケスターは、定期演奏会の他、全国各地で行ってきた 公演も好評を得ている。また帰国直後より、KMA(Kubota Musik Akademie)を主宰し、後進の指導にあたっている。2002年12月、モスクワにて、ロシア・バラライカオーケストラの最高峰、オシポフ国立ロシア民族楽器オーケストラを、初の外国人指揮者として指揮。2004年4月、ロシア・チェレポヴェッツ市で行われた、第5回ロシア国際民族楽器演奏コンクール「北方杯」に、撥弦楽器部門の審査員として参加。同年9月、リペック市で行われた、職業音楽家によるロシア民族楽器オーケストラ国際音楽祭に、クボタ・フィロマンドリーネン・オルケスターを率いて参加。同年11月、クラスノヤルスク市で行われた、第2回全ロシア・ロシア民族楽器指揮者コンクールに、審査員として参加。2006年、第6回「北方杯」に審査員として参加。ロシアにおいて高い評価を得、同国での活躍の場を広げている。また、2007年9月にはギリシャで開催されたEGMA(ヨーロッパ・ギター・マンドリン協会)主催のヨーロッパマンドリンコンクールの審査員を務めた。日本においても2005年、第1回大阪国際マンドリンコンクール&フェスティバルの審査委員長を、2006年、第2回大阪国際マンドリンコンクール(作曲部門)、及び前橋マンドリンフェスタ2006・マンドリン四重奏コンクール、2007年、日本マンドリン室内楽コンクール2007の審査員を務めた。また、日本マンドリン作曲コンクールは第1回から、日本マンドリン独奏コンクールは第11回から審査員を務めている。

現在、日本音楽著作権協会(JASRAC)正会員、日本マンドリン連盟(JMU)顧問。クボタフィロマンドリーネンオルケスター及び上智大学ソフィアマンドリーノ、明治高校マンドリン部、同部OB孝友会オーケストラ、山脇高校マンドリンクラブ、玉川聖学院ギター・マンドリン部音楽監督。

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